搭乗券入れ

年が明けてから、時間を見つけて昨年後半の郵趣活動で得た品々を整理しています。

narita-ana

全日本空輸(ANA)の搭乗券入れに、1978年5月20日発行の「新東京国際空港開港」記念切手を貼り成田空港郵便局の欧文ローラー印を切手発行日に押印しています。

見たときから違和感を感じていたので、すかさず入手。
それは、なぜANAの搭乗券入れなのか?
普通だと、日本航空のチケット入れでは…と思うのは、航空マニア入ってますね(笑

実際ANAへホームページ経由で問い合わせてみました。
ホームページの会社沿革で紹介されていて、初就航の路線は全て採り上げられています。
ANAとしての成田への初就航は1978年8月1日からで名古屋との間を結ぶ便という事が分かりました。成田空港の開港2ヶ月後で、国内線です。
この記念品を作った人がどのような意図で作っているかがとても気になる。私のようなANA好きなのか、当時の航空運賃は意外に高いので、やむなく手持ちのチケット入れを使ったのかと、色々想像できてしまいます。

今は、日本の二大航空会社は国際線を運航していますが、成田空港が開港した当時は現在とは全く事情が異なります。
1971年に国内の航空会社が3社になって以来、
日本航空(JAL)は、国際線と国内の幹線を運航し、
全日本空輸(ANA)は、国内の準幹線とローカル線を運行し、
東亜国内航空(TDA、後の日本エアシステム、1994年に日本航空と統合)は、国内のローカル線を運行する。
という行政の指導で運航路線が指定されていました。俗に「45/47体制」と呼ばれています。

この体制には、国内航空会社の保護という観点がありました。
戦後日本での航空活動が再開されて以来、民間航空会社は合併を繰り返していました。政府からの指導もありましたが、航空会社自体が過当競争にならないよう、自主的にも行われていました。
その結果、1960年代後半には日本航空と、全日本空輸、東亜航空、日本国内航空の4社体制になり、最終的には、日本航空と全日本空輸の二社体制に整える方針でした。ところが、東亜航空と日本国際航空が合併し、東亜国内航空が発足することに。それを踏まえて、政府で航空会社の営業路線を指定する事になりました。
この体制は、全日本空輸や東亜国内航空の国際線就航は国の方針転換がなされた1985年を待つ事になります。