C-3PO ANA JET

2017(平成29)年3月21日は鹿児島空港に行ってきました。

全日本空輸(ANA)の特別塗装機「C-3PO ANA JET」の初便就航が羽田=鹿児島線。
ボーイング777-200ERにスター・ウォーズに搭乗するキャラクター「C-3PO」をモチーフとした意匠の塗装を施しています。運良く仕事の休みと重なったので、行った次第です。

前日の夜中に、記念カードの準備をしていなかったことに気付き、大慌てで準備。
C-3PO ANA JETの到着予定時刻の40分くらい前に鹿児島空港に到着したため、鹿児島空港内簡易郵便局で引受押印してもらいました。
今回は、同伴者もいたので極力手短に切手貼りと押印依頼をしました。

全て実逓便で作成し、羽田空港郵便局の局留便で差し出しました。
テストケースで、カシエの題名は全て英語に。今考えると、一番下の行に小さい文字で日本語表記もして良かったかな?と感じています(今後の課題にします)。
押印時に、帰りの便の便名をタイプミスしていた事を発覚(本当はANA624便)した時は凹んでしまいました。

最後に、今日撮影した写真での一番のお気に入り。
C-3PO ANA JETとボンバルディアDHC8-Q400とのツーショット。
ANAの一番小さい飛行機と(2番目に)大きな飛行機が鉢合わせした場面です。

19770107 ニューギニア航空・鹿児島路線

私の地元、鹿児島空港は今では中華民国、中華人民共和国、香港、大韓民国と近隣の諸国との定期便が開設されています。

昭和50年代初め頃までは、小国のフラッグキャリアが日本への定期便を開設する際に選んだ空港というケースもありました。ナウル航空(現在のアワー航空)と、今回紹介するニューギニア航空です。
1977年1月7日に鹿児島とパプアニューギニアの首都、ポートモレスビーの間を就航しました。

初飛行カバーをご紹介します。

19520107-newguinea-1

「TRANS WORLD PHILAIR CLUB」が作成したカバー。
ニューギニア航空が作成したと思われる、記念スタンプが押印されています。

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もうひとつは、日本側で作成したと思われる初飛行カバー。それぞれで欧文日付印の印影が違うのも興味が湧きます。
日本国内の代理業務は、当時のフラッグキャリアの日本航空ではなくて、全日本空輸(現在のANA)で行われていたのも面白いです。
状態が悪いものの、資料と割り切って入手しました。綺麗なカバーと出会えたら、是非とも交換したいです。

私の中で謎だったのが、地元鹿児島では無くて東京空港郵便局の消印が押されていること。
ひとつのヒントは、日本側で作成したカバーのカシエに描かれたルートの記載。飛行機自体は鹿児島からなのですが、実質的には東京から鹿児島経由という記載をしています。

郵趣的な資料も手に入れていましたので、記事ごとご紹介しておきます。

19770405-satsuma

「鹿児島郵話会」が1977(昭和52)年4月5日発行のはがき通信「さつま通信」143号に、パプアニューギニア宛の郵袋伝達式が行われた事が記載されています。残念な事に伝達式の日付が明記されていませんが、この前の号で郵趣情報を取り扱っているのが1977年12月のため、恐らく初飛行日に郵便物に載せられていたことが推測されます。
最初に取り扱っていた300通のうち、初飛行カバーが何通だったのかとても気になるところです。

搭乗券入れ

年が明けてから、時間を見つけて昨年後半の郵趣活動で得た品々を整理しています。

narita-ana

全日本空輸(ANA)の搭乗券入れに、1978年5月20日発行の「新東京国際空港開港」記念切手を貼り成田空港郵便局の欧文ローラー印を切手発行日に押印しています。

見たときから違和感を感じていたので、すかさず入手。
それは、なぜANAの搭乗券入れなのか?
普通だと、日本航空のチケット入れでは…と思うのは、航空マニア入ってますね(笑

実際ANAへホームページ経由で問い合わせてみました。
ホームページの会社沿革で紹介されていて、初就航の路線は全て採り上げられています。
ANAとしての成田への初就航は1978年8月1日からで名古屋との間を結ぶ便という事が分かりました。成田空港の開港2ヶ月後で、国内線です。
この記念品を作った人がどのような意図で作っているかがとても気になる。私のようなANA好きなのか、当時の航空運賃は意外に高いので、やむなく手持ちのチケット入れを使ったのかと、色々想像できてしまいます。

今は、日本の二大航空会社は国際線を運航していますが、成田空港が開港した当時は現在とは全く事情が異なります。
1971年に国内の航空会社が3社になって以来、
日本航空(JAL)は、国際線と国内の幹線を運航し、
全日本空輸(ANA)は、国内の準幹線とローカル線を運行し、
東亜国内航空(TDA、後の日本エアシステム、1994年に日本航空と統合)は、国内のローカル線を運行する。
という行政の指導で運航路線が指定されていました。俗に「45/47体制」と呼ばれています。

この体制には、国内航空会社の保護という観点がありました。
戦後日本での航空活動が再開されて以来、民間航空会社は合併を繰り返していました。政府からの指導もありましたが、航空会社自体が過当競争にならないよう、自主的にも行われていました。
その結果、1960年代後半には日本航空と、全日本空輸、東亜航空、日本国内航空の4社体制になり、最終的には、日本航空と全日本空輸の二社体制に整える方針でした。ところが、東亜航空と日本国際航空が合併し、東亜国内航空が発足することに。それを踏まえて、政府で航空会社の営業路線を指定する事になりました。
この体制は、全日本空輸や東亜国内航空の国際線就航は国の方針転換がなされた1985年を待つ事になります。

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